「石占い」に込めた願い

こんにちは。カウンセリング ラウアの伊藤です。

来年、新年早々「石占い」のイベント開催が決まり、やっと何とか再出発できそうです。

この「石占い」には個人的に深い思い入れが二つありまして、ラウアのポリシーとでもいうほどに重要な位置を占めています。

一般的に心理カウンセラーや心理療法士を標榜している人は「占い」をしません。

兼業でしている神職の仕事でも「占い」は一部の神社で特殊な伝統神事を行うときにしか行わず、現職の神職が個人的な占いをしているとなると仲間内から「白い目」で見られることを覚悟しなければなりません。

それでも、私にはあえて「占い」をする思い入れがあるのです。

一つ目は、以前、カウンセリングルームを開業していたときや、県や市で福祉関係の相談員をしていたとき、「この前、占いに行ったらこんなこと言われたんですけど…」という相談の多さに驚いたことです。このように話される方は大概何人もの占い師を渡り歩いており、「それぞれにいろんな事を言われるものだから、何を信じて行動したらいいのか分からない」状態になって相談に来るのです。
依存心が強く、大人になりきれない人と言い切って突き放すことは簡単ですが、その相談者に未成年のお子さんがいるとなると事は重大になってきます。

占いジプシーさん(占い師を何人も訪ね歩く人)の不安や悩みには、家庭内の暴力であったり、虐待された心の傷やいじめ問題、慢性的な経済的困難、あるいは発達障害や知的障害のグレーゾーン的な生きづらさの問題が隠れていることが多くあります。

それらの問題は行政で行っている無料の相談やソーシャルワークに繋がったり、または適切に医療機関を受診することで解決する問題なのですが、それでも「占いジプシー」をしているほうが本人にとっては心地よい状態なのです。

なぜ「占いジプシー」をしているほうが「現状の改善」より心地よい状態なのでしょうか?

ラウアのカウンセリングはこの受容から始まります。

また、日本の現状として、心理カウンセリングや心理療法に対するイメージが「精神科の病気を治す」こと(注:精神科の病気を治療するのは精神科医です。カウンセラーは治療できません)とごちゃまぜになっている感があるため、気軽に相談できる雰囲気ではないのかもしれません。
そのため気軽になんでも相談しやすい「占い」や「スピリチュアルカウンセリング」的なことが多くの人に求められる理由のひとつだと思っています。

二つ目は、以前の開業で石占いをしていたとき、私は必ず「占いができるということは、まだ余裕があるということです。余命幾ばくもない状況に追い込まれたら、占いどころではないでしょう」と言っていたのですが、ある日、10年後に再会したSさんから「石占いって今もやっているんですか?私はあの時言ってもらえたことが今の心の支えになっているのです。もう一回占ってくれませんか?」と開口一番に言われ戸惑ったことがありました。
再会したときSさんは全身にがんが転移し、余命3か月を切っていました。

そのときはすでにカウンセリングも石占いも辞め、市の相談員をしていたこともあり、Sさんに「今はしていないんです」と伝えたのですが、すぐに「なんで?」と返ってきました。

当時の私は、私自身を全て否定し「普通」に社会人として生きて行くことに必死だったこともあり、何とか気持ちを整理してSさんに心情を伝えると、「私は待っているから、石占いできるようになったら教えてね」と言われ、その場を後にしました。

ちなみにSさんという方は、けして「占いジプシー」さんではなく、長年、児童養護施設の職員や福祉関係の相談員をされてきた方です。
再会した当時は緩和ケアを受けながら気丈にも身辺整理をされていました。

残念ながらSさんの石占いは最後までできないまま彼女を見送ることとなり、亡くなる3週間前に電話で話たことが最後になりました。
「なんで石占いがしたかったの?」と最後に聞いてみると、彼女は笑いながら「今の私にとってカウンセリングは必要ない。緩和ケアで散々受けた。あなたは10年前の石占いで私に「大勢の人に囲まれている様子が見えます」と言ってくれたの。そのときは意味が分からなかったけど、今はその言葉が私の希望になっている。私はけしてひとりぼっちで死んでいくのではないと。あなたは私に希望をくれたのよ。そのことを忘れないで、再開する日を楽しみにしているね」

Sさんが命がけで教えてくれたメッセージでした。

この二つの思いを胸にして、私は「石占い」を通して皆さんと、そして自分自身と向き合います。

皆さんに「希望の言葉」を伝えることが私の使命であることを信じ、お会いできる日を楽しみにしています。